生きるとは ― 2024年06月10日 17:14
生きるとは
「生きるとは」かなり大きな題をつけたが、中身はそれほど大袈裟ではない。高齢者の生きがいをふと考えたと言うより、闘病中の今と、数年後できれば10年ぐらい経ったときに「生」をどのように考えているか比較したいと思ったわけである。
歳取ってよく思い出すことの一つに子供の頃の家族との思い出がある。親や祖母との日常の断片が頭をよぎる。そして、オトウやオバア(明治生まれ)の仕草やつぶやきの意味が良くわかると言うか、それに納得するのである。
中学生のときは弁当持参であった。その弁当はオバアが作ってくれた。平べったいアルミの弁当箱で、煮物のおかずだとカバンの中で汁が出て匂いがついたり、ご飯にしみたりした。それが嫌でオバアに文句を言った。彼女は色々工夫してくれた。ご飯との境界にとろろ昆布を挟んでくれた。だが、完璧ではない。さらに文句言ったかどうかは覚えていないが、少なくともありがとうは言っていない。
今ごろになって、文句言いの孫に毎日工夫をこらした弁当を作ってくれたオバアの愛と明治婆のすごさを感じ、感謝の念で胸いっぱいになる。幼少時に世話してくれた家族の思いへの理解は、歳によってその深さが変わる。親孝行したいときには親はいないである。
若い頃の経験はそのときは分からなくても、思い返してその意味を理解できることがちょくちょくある。同じことでも、年齢によって解釈が変わる。このように幾つになっても新たな発見があるのである。これには年齢制限があるかもしれないが、このごろやたら発見が多い。若い頃の出来事を思い出して納得したり、反省したりで、この歳になって反すうしてやっと消化できた気がする。
病気など初めての経験や気付き、発見はたくさんある。これらのことを若い世代に伝えることが、高齢者の生きがいの一つになっているように思う。
動物は生殖機能を無くした時に死んでゆく。人類だけが例外である。それは文化を持ち社会を作っているからだそうだ。そういう意味で高齢者は先人の知恵を理解、納得して文化の進化に貢献することが期待され、いや、使命を帯びているではなかろうか。
こういうふうに考えると、どんな人でも人類進化への貢献という使命を死ぬまで帯びていることになる。そうなんや、何か人や物事に不満を感じたら、この使命を思い出して独りおさまるのも良いかもしれないなあ。
そうは言うけど最近のTVを見ていて、腹が立つとそう簡単におさまらんでなあ・・・そりゃTVの見過ぎ、とくにお昼はやめなはれ・・・
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