モネの日の出を模写 ― 2025年05月28日 18:03
モネの日の出を模写
印象派の絵が好きで、よくみに行った。ずいぶん前に、モネの「日の出」をみた。暗い部屋の真ん中でやたら日は輝いていた。オレンジとグレーのコンビネーションが素晴らしい。あさひをここまで輝かせる絵とその展示はさすがである。
これまで淡彩のスケッチをやってきたが、上塗りが効く油絵に憧れていた。当時はまだ若かった。やりたいと思うや即座に道具を揃えた。実は色々考えるこの時が一番楽しい。一揃い買って、やりはじめたものの油絵のテクニックを持っていない。今も持っていないが、まともな絵になるはずがない。さらに油は準備と後始末が煩わしい。ついつい億劫になり、病気になって絵を描く気力が萎えてしまいほったらかしである。
先日、Eテレで3ヶ月でマスター・絵を描くという番組をみた。みていると割と手軽そうである。アクリルのガッシュという乾きの早い絵の具を使う。うん、面白そうだ。これは今の自分の状態にピッタリではないか。気が向いた時に気軽に描きたい。それに後で修正が効く。絵心が少し動き出した。
ということでさっそく材料を取りそろえた。机の上にモネの日の出の葉書を飾ってある。とりあえず模写だ。
絵の具の扱いは手軽で気に入ったが、油絵の具で同系色の色の塗り重ねた空気感はこの不透明絵の具では難しそうだ。テクニックがついてこない。筆のタッチがうるさく全体にスッキリしない。道具のせいではないのは承知のすけだが、透明のアクリルもあるらしいので、それを試すかな。
一方、模写で教わることは多いが、自分の絵ではない。一からこんな絵は描けそうもないと、しばらく忘れていた創造の難しさを思い出した。さらに、闘病で自己主張に自信をなくしてしまっている。
うーん、うまくいかなかったら病気や年や、何かのせいにする癖がついている。ここで考えすぎてはいかん。いろいろ思いつくことをやってみるのだ。落書きで良い。とにかく筆をとろう。使ったこのない絵の具を試すのも良し。散歩に出たら写真を撮ろう。今、五感は鈍っているのだ。ちょっとした刺激がいる。
(日の出模写後、独り言)
ちょっと最初にしてはまずいな。印象派巨匠のモネ、お手本のレベルが高すぎる。納得の模写にならない。病気で遠ざかったスケッチ感、鈍くなった感覚はうたた寝、いや熟睡だ。日の出が夕焼けこやけになってしまった。
幸太郎 九拜
スズメバチ追記 ― 2025年05月09日 13:20
6回目の点滴入院:病と共に豊かに生きる ― 2024年10月08日 10:55
6回目の点滴入院:病と共に豊かに生きる
今週中に6回目の抗がん剤の点滴投与のため入院する予定である。この薬の投与は6回が限界になっている。これで効果をみて次の治療法を検討することになる。
とにかく一区切りつくので、もうひと踏ん張りせねばと思うが、副作用のことがちらつくので目先はさすがにうっとうしい。
ガンになっていろいろ考えさせられた。俯瞰すればまんざらでもないのではないかと思う。人はいずれ死ぬ。歳とるにしたがい心身は老化する。病気にもなりやすい。そして経験のない突然の不具合で苦悩がはじまる。脳はこんなはずではないと苦でいっぱいになる。
お釈迦さんは苦から救われる方法を教えている。一言でいえば真の自分、仏性に気づけということだと思う。言いかえれば悟りであって受け身ではできない。頭でいくら考えてもできることではない。神仏を信じるだけでは救われない。悟りたいとの目的や執着をもって修行してもそれは叶わない。只々身体を動かして作務を無心でやるしかない。お祈りも身体がおぼえるまでやるのである。時間がかかる。
ガンになってこんなことに気づくことができた。そして今少しずつ実践している。毎日ではないが、早朝30分ほど坐る、次に読経、スクワットである。実は9時に寝て、夜中1時ぐらいにトイレに行く。その後熟睡できない。うつろうつろして時計を見れば4時である。え〜いとばかりに起きるのである。
この朝課のためにパソコンの前に仏壇にもなる花台を置いた。仏は円空仏の摸刻をネットで探して買った。小さな龍頭観世音菩薩である。以前から円空仏に興味があって展覧会にも行ったが、自分で彫ってやろうと思っていたので、関連するグッズは何も持っていなかった。いざ彫るとなるとかなり難しい。そこでやはりプロが彫ったものをもとめた次第である。闘病が一段落したらこの観音さんを手本に彫ってみようと思う。
=== パソコンの前のミニ仏壇、仏は龍頭観世音菩薩(14cm)。なお、自坊の本尊は聖観世音菩薩。===
=== 普段は花台にする。観音さんも鎮座するので、生花風野草のアートを飾るつもり。この花は、外からの刺激で脳神経がカオスの状態になっている様子をあらわした。刺激はそのうち脳内の神経網である秩序をつくる。それがいわゆる心だという。
中央はモネの睡蓮の池に架かる橋のマグネット(東京時代に職場のT嬢からいただいた)。左端の人形は台南みやげ。背景がさみしいので貼り付けてみた。
この飾りは一見ばらばらのようだが物語もこじつけられる。天使が睡蓮池の橋をわたって浄土からお出ましの観世音菩薩と合流するところで、曼荼羅の一部となっているとの解釈はどうだろう。モネの蓮池があったらもっとリアルだが、このチグハグさというかやっつけ仕事、なんとも言えんな。なにも決まりはない。これが現実なのだ。===
食道がないので、食後は1時間ぐらい上半身を起こしておかねばならない。いつも机の上に足をのせて休んでいる。だから観音菩薩に足向けるわけにいかんので、菩薩は別の場所に鎮座してもらっている。
こんなことに夢中になっているときに苦はない。絵を描いているのと同じで、プロセスが楽しい。こんなことで少しずつ心が調う感じがする。芸術家や作家のように、お迎えが来る間際まで没頭できることがあるのが一番だと思う。そのときは無の境地で苦はないのだから。
闘病がきっかけで豊かな老後に向かう道に一歩踏み出すことができた。このように考えれば病に教えられながら、共に生きて行けるのではないだろうか。
幸太郎 九拜
闘病を考える ― 2024年04月14日 16:31
闘病を考える
ガンになって闘病記が気になる。世に出ているのは、ある意味勝ち組の例である。完治するしないにかかわらず、皆さん、生き様として立派である。闘病というよりは、十分に生き抜いたというほうがあっている。
NHKスペシャル 坂本龍一の最期の日々を見た。闘病に苦悩するドキュメンタリーである。ステージⅣのガンでガン治療のフルメニューで、副作用が半端でないのがよく記録されている。
音楽に助けられながら、最期まで一抹の望みを持っていたようである。普通の闘病生活のようにも見えるが、音楽が生活の一部になっていて、音楽だけが正気を保つ唯一の方法だったと言っているように、それで不安と恐怖の負のスパイラルに落ち込まずにすんだようだ。
ピアノでAquaをひいていた。やけに心に沁みた。素晴らしい。
闘病とか、最期の日記とか目にできるのは作家や芸術家に限られる。彼らに共通しているのは、手に職を持っていて死ぬまでそれに打ち込んでいることである。それは言葉で言い表せない心の叫びを芸術でアウトプットする手段を持っているということで、その役割は精神の安定に大事なようである。
そういうものを持っていない普通の人の話しも読んだことがある。ステージⅢの子宮がんで47歳でこの世を去ったそうだ。彼女も治療しながら、自身の体験をSNSや、地方新聞に寄稿していたそうだ。自身の思いや感情を表現するのは、芸術家と変わるものではない。
歳とれば病気でなくても、身体は衰え、機能を失っていく。ガンは予想外のスピードで死に至ることがあるので、心の準備が追いつかないこともある。こんな時ほど日課というか、何か好きなもの没頭できるものが、心をととのえるのにいるのだと思う。
自分の場合は、ガンとは言え死の意識はうすく、まだ、ひとごとである。現実に死がせまると、必ず怖くて、不安になる。これで落ち込んだままでは心の整理もつかないまま、おさらばになってしまう。
闘病記を目にして、何かこのままで良いのかふと考えてしまう。このブログで少しは頭の整理ができているのかもしれない。だが、何か物足りない。感情のアウトプット手段がいる。やっぱりアートに惹かれるので、とりあえずはタブレットで遊んでみるかな。
佐伯祐三 回顧展 ― 2023年06月08日 15:59
佐伯祐三 回顧展 @中之島美術館
久しぶりに美術館に行ってきた。佐伯祐三、142点の大回顧展である。油彩では好きと言うか、憧れる画家である。ヴラマンクやユトリロの影響を受けているらしいが、確かにそれなりに感じられる作品が幾つかあった。
ヴラマンクか?
ユトリロか?
いづれも自分では描けない迫力である。須田剋太も力強いが、佐伯のパリの壁はすごい。
つぶやきが聴こえる。「オレは生きてるぞ、お前はどうや」
パリに渡ってまもなく、フォービズムの巨匠ヴラマンクに言われたらしい。「描くのは対象の表面上の色、光と影ではなく、物質本来が発する色をみよ」なるほど、写生と言うけれど、対象との心の会話である。それが出ないと、絵にならない。子供は心に映ったまま、技なしで出してくるので自然と絵になる。
佐伯も初期の頃の絵は、技が優位に見えるが、晩年は技に心象描写の豊かさが加わり、その深みが心をひきつける。
画家の癖かもしれない。人物でも建物でも左に傾いている作品が多い。小学生の頃に水間寺の三重塔を写生した。やはり左に傾いていたのを思い出した。
この日は、6回目ワクチンの副反応上がりなのだが、午前中はジムで少々やり過ぎ、昼食後1時間も寝てしまった。急ぎ中之島へ、3時過ぎから閉館の5時まで立ちっぱなしであった。
お陰さんで、脳にいつもと違う刺激が入って妙に頭はさえ、脚はガタガタで、調子は昔よくやった立ち飲み2時間、4、5杯?と言ったところか。帰りの電車では、珍しく席を探していた。
数年来、絵を描いていない。自分の絵の評価は別の機会にするとして、再開するかなあ。かなり刺激を受けた次第である。あらためてアートの力はすごいと感じた。良かった。














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