協生農法と自然農法2023年12月04日 14:53

 協生農法と自然農法


 ついこの間、テレビのニュースか何かで協生農法という言葉を知った。草と一緒に作物を植えるらしい。これって一昔前の自然農法とどう違うんだろうか、気になる。

 自坊の草畑は自然農法と自称してきた。今年は病気で7月から今まで、草刈りもせず放置したままである。10月末に、見回りに行った。案の定、ひどい状態になっていた。草はすごい。

 6月末の畑:元気な時、梅雨の合間に、草を刈った。右はゴーヤのネット


 10月末の畑:闘病中の我の如く、ゴーヤのネットは倒れて草の中


 草たけは膝上から腰あたりである。今年の夏は雨が少なかったので、この程度で済んだのかもしれない。みかん類も枝枯れが目立つ。オリーブの若木は枯れていた。

 話を戻そう。協生農法である。ネットで調べたり、AIにたずねたりして大体わかった。さすが、AIは無難な返答である。それによると、自然農法との差異はあまりなく、強調点が少し違う程度だそうだ。どちらも、化学物質の排除と、生物の多様性を重視する点で共通する。

 さて、元気になれば調べたいと思う。一見したところ草だらけで、毎年生える実生の大根が見当たらない。大根は嫌光性種子らしいので、日当たりはあまり関係しない。気温の問題かな。

 農法と名のつく限り、手入れせずして何も育たない。放置すれば雑草だらけの林になり、あっという間に耕作放棄地となる。自然とか協生とかの名にごまかされてはいけない。庭でも田畑でも人の都合に合わせて育つ植物はない。

 病気になって身にしみた。自然が迫る生活環境で暮らすには、まずは体力、次にお金が要る。畑といっても、1日で草を刈れる程度のものであるが、いつまで、できるかどうか。さらに、本堂は雨漏りで、一部の畳をあげている。そこそこ自力で管理してきたが、何れ限界が来る。できなければ他人に頼むしかない。

 老齢の問題は介護だけではない、今住んでいるマンションも含めて、生活の場も既に老化でいろいろ出てきている。小手先で片づくことではない。

 はや師走入り。問題意識だけが走馬灯のように、かけめぐる。あれもこれも病気のせいで済めば良いのだが・・・。



まだ、草刈りはしんどい2023年12月14日 16:28

 まだ、草刈りはしんどい

 草畑の荒れた現状を知った。これが厄介で、打ち寄せる波のごとく幾度となく頭をよぎる。精神的によろしくない。

 スッキリしたいので、先日、草刈りに挑戦した。自坊で一泊する事になるので、昼食→夕食→朝食→昼食の準備がいる。前日に、冷凍など保存がきくものを適当に買って行った。

(写真の他にカップヌードルを買った。プラ容器はご飯と茹で菜花、ハンバーグは良かったが、ドリアは口に合わなかった。一泊は何とかなった。)


 朝、10時頃から休み休み15時ぐらいまでやって、7割ぐらい刈った。草刈機はホンダの4サイクルを使った。電動もあるが非力なのである。

 かなり持久力がなくなっている。20分と持たない。また、べたっと倒れた枯れ草、所々をツルが覆うのは刈りにくい。直立する草をスパッと刈った時の爽快感が全くない。さらに不満が機械に向く。まず、エンジン式の煩わしさ。騒音の為の耳栓、ガソリンの補給、それに4サイクルなので重たい。

 翌日、チップソーを新しいのに替えて残りを刈った。午前中いっぱいかかって9割終わった。作業のしんどさは変わらない。まあ、気になってたところは刈り終えたので、ひとまず、精神的には落ち着いた。

(草は種を実らせている。それらをばら撒いた状態、来シーズンが怖い。)


 家に帰って色々考えた。体力回復と老化はどこでバランスするか、あと何年作務ができるかなどである。誰もわからない事である。で、結論は電動草刈機を買い増す事にした。

 自己満足のための必要理由は、あと10年ぐらいやるとして、体力は元には戻らない。優先するのは機械の軽さと手軽さである。今、持っている電動機もそこそこ刈れるが、10年ぐらいたつので替え時である。色々進化しているはずだ。音が静かな電動はラジオを聞きながらできるのも良い。

 と言う事で、インターネットで調べて、マキタのMUR015GRM を選んだ。価格は65,423円であった。楽天のポイント3000ぐらいを考慮したら一番安かった。

 今持っている電動機類はマキタが殆どで、特に不満はないし、他メーカーを試す余裕もないのでキマリであった。

 春に出番がくる。暖冬なら少し早まるかもしれない。体力回復とあわせて少しワクワクする。


寺のクリスマス2023年12月19日 13:55

 寺のクリスマス


 幼少の頃は、欧米へのあこがれが強かった。特にアメリカの豊かさにあこがれた。戦後の好景気がスタートし、明るく、楽しそうで、舶来と言って、いろんな物事がハイカラ、新鮮であった。(ハイカラで1970年頃のシニカルな歌、はっぴいえんどの「はいからはくち」を思い出した。ロックミュージックで西欧迎合にあらずと、その本質を追求していたバンドである。疲れた時に聴くのに良かった。)

 クリスマスは明治の終わり頃が始まりらしいが、日本風にアレンジされ一つの文化として定着している。小さい頃は親が、お菓子で詰まった靴型の箱を、枕元に置いてくれるのが楽しみであった。

 思春期になって、クリスマスソング、カードなど、宗教的な意味が分かるようになっても、それはそれとしてお祭りとして騒いでいたように思う。

 自坊では、寺だからどうのこうの言うことはなかった。ただ、この季節、寺でクリスマスとは如何なものかと、忘年会などで話題になることもあったときいた。

 古くから日本人は八百万の神を奉り、仏、キリストなどを排他することなく、それなりに受け入れてきた。この寛容な風土がベースにあるので、宗教にこだわることなく、いろいろな文化を取り込んできたのだと思う。

 純朴とも言えるこのような風土は、時に誤解を生む。定期礼拝を欠かさない信教徒からみれば、日本人の宗教観はないに等しく、無宗教に近いのではないか。これに対し、仏教学者の鈴木大拙は、「日本人の生活そのものが宗教的である」と述べている。確かに、でも、どこの国でも生活と宗教は密着しているように思う。

 話を戻そう。日本のクリスマスは、たいがい子供向けのイベントであるが、宗教性の認識に関係なく、寺でも神社でも楽しめば良いと思う。もっと言えば、Xmas、ハロウィーンとなんでもやってみれば良い。極東の島国では、世界の多様性を理解し、受容力を鍛えるチャンスは限られると思うからである。



 といっても寺の12月は寂しい。日本も世界もクリスマスだらけ。8日はお釈迦様の悟られた日で、寺では成道会が行われるのだが、一般には、ふーん、そうですかと影が薄い。

 今や、クリスマスになっても、若い頃のようなときめきは無い。だが、年の瀬にいつもの緊張感が湧き、何かあれば神・仏とつぶやき、けっしてホトケ・カミとは言わない、しばし多様性を考え、また忘れてしまう普通のおっさんでありたい。

 いや、できれば、♪ 一日二杯の酒を飲み・・・時代遅れの男になりたい ♪

 

病気-年末雑感2023年12月30日 20:08

 病気-年末雑感


 6月に胃カメラで食道がんが見つかった。7月に抗癌化学療法で2週間単位で2回入院した。8月のお盆明けに切除手術をした。11月からオプジーボの抗がん免疫療法を開始し、4週毎に12回の予定で点滴を継続している。

 7月から家族を巻き込んで生活が一変した。自覚症状は咳が出る程度で痛みはないが、気が滅入った。切り取れば済む、いやあちこち転移してるかもなど、繰り返し頭に浮かんでくる。機嫌の悪いオヤジ一人にてんやわんやで、家人を筆頭に周りは耐えて良く面倒見てくれたものである。

 抗がん剤療法は副作用がでる。全体的に倦怠感がでて吐き気、食欲不振、下痢、便秘、脱毛など、とにかくしんどい。最初は症状が出ても我慢して薬をもらわなかった。そのうち要領がわかってきた。もっと早く薬を要求すればよかったと思った。それもあって2回目の入院時は副作用が軽かったような気がする。

 8月化学療法が終わって、2週間ぐらいたって、急遽手術日が決まった。最終確認のPET-CT検査をやめて手術することを、グループ会議で決めたそうである。お盆もあって手術室が混み合っていたのかもしれない。手術前のX線CTやカメラ検査で、癌が小さくなっていることが分かり一安心していたものの、リンパ節への転移があるので早いに越したことはない。

 手術の当日は朝から家人と控室でしばし面談して、手術室に入る。この時がなんとも言えない。今生の別れとまでは言わないが、よろしくない。というのは、生きて戻れないかもしれないと一瞬考えてしまうのである。あまり経験したくない。こちらの意識は麻酔が効くまでのわずかな時間だが、家人は7時間余り(家人より10時間とのこと。1/16訂正)不安な時間を過ごしたので大変だったろうと思う。

 入院中は看護師さんのお世話になる。治療の柱である24時間点滴から体温、血圧などの計測やら、採血まで看護師さんがやってくれる。昼夜の2交代である。女性の場合は、ほとんど髪型は一つ結び、べっぴんさん揃いで区別がつかない。もちろん、名前は覚えられない。ナースステーションでは誰もが担当者に見えてしまう。見かけは別にして、色んな人がいる。繊細な人から大雑把な人まで色々、でも皆さんよくやってくれた。

 コロナ禍で医療従事者の大変さは報道で知っていたが、自分がお世話になって、あらためてすごいと思った。歳とれば他人の有り難みが身にしみると言うが、病気になってその感は倍増した。同時に、どこかに潜む傲慢さを恥ずかしく思い、生かされていることを実感させられた。

 悪いことばかりではない。「ぼちぼち生き様を見直せ」との天の仰せである。病気もこの程度で済んだ。天罰ではない、愛の鞭なのだ。