三沢厚彦 ANIMALS ― 2021年01月06日 13:03
ブログ 三沢厚彦 Animals
木彫に興味がある。ハルカス美術館で三沢厚彦の展覧会が開催されていたので行ってきた。場所はハルカス美術館。テーマはアニマルズで、等身大で大きい。

顔はひょうきんで親しみが湧く。目つきは逆八型でやや鋭い。彫りは丸みに沿って円周方向に彫ってある。

作者は図鑑で大きさの確認はするが、動物園などで実物は観察しないそうだ。先入観が表現の邪魔をするようだ。

スケッチしてみたらこんな具合だ。真似たがこれは既に三沢のそれではない。やっぱり実物のほうが迫力があるなあ。

空想上の動物には力が入っている。ボーと見てたら気付かないが、背中に鳥みたいな人が乗っていた。子供には見えない高さだ。どんな意図なのかつい考えてしまう。

別の空想上の動物には、背中にヒョウのような顔が乗っていた。これは後ろに回れば子供でも見える。子供は違和感なく見えるのだろうなと思うと羨ましい。

写真は撮れなかったがが、真似できそうな小さな作品もあった。一度チャレンジしようと思う。
寒中お見舞い申し上げます ― 2021年01月14日 17:41
焚き火で夕食 ― 2021年01月19日 17:45
ブログ 焚き火で夕食
1月になると思い出す。阪神淡路大震災が発生した。あれから26年になる。防災訓練とまではいかないが、焚き火場を整備しつつ、ぼんやり非常時に活用したいと考えていた。暖をとるだけでは勿体ない。やはり食をとらねばならない。と言うことで、電気、ガス無しで野外で夕食をとることになった。水は、水道のお世話になった。メニューは手間のかからない鍋にした。
仕掛け
小さい頃、炊事はかんてき(七輪)だった。炭火の加減は、かんてきの通気口の開け閉めで比較的やり易い。今回は雑木の柴だけなので、火加減には少し慣れがいる。
犬鳴豚
鍋の中身は「犬鳴豚」のしゃぶしゃぶ。

バーベキュー台の上に鍋を吊す。さきに野菜など適当に入れ、湯が沸いたら火を弱める。しゃぶしゃぶは、沸騰させない方が煮え加減の調整はやり易い。高齢者にカチコチの肉はよろしくない。この豚、なかなかいける。

締めの焼き物
終わりに網をセットしてソーセージとメザシを炙った。

灯りはソーラー
今回、灯りは半自作のソーラーシステムの回線を使った。一晩の食事中ぐらいはもちそうだ。
河内のおっさん
灯りはどないでもなる。停電になったら水道は止まるんや。飯食わんでも水なかったら死んでしまう。水や!水や!水持って来んかえ。ど阿呆春団治、お浜を呼ぶ。(締めのメザシで般若湯、ややお過ぎなようで)
火バサミ ― 2021年01月25日 17:51
ブログ 火バサミ
ちょくちょく雑木を燃やすシーズンになった。ただ燃やすだけではなしに、火を利用するとなると、火バサミや什能がいる。今使っているのは30年ぐらい前に購入したものである。使用頻度は低いが大分くたびれてきた。買い換えるつもりでホームセンターで探したが、板厚が薄く頼りないものしかない。そこでインターネットで調べてみた。
松印の火バサミ
厚板の火バサミで検索したところ、田中文金属(株)の万能火ばさみを見つけた。板厚は0.9か1.0ミリで、ブランドは松印100年とある。大阪の会社なので小売できるか問い合わせた。それはしていないとのことで、販売店を紹介してもらった。千日前道具屋筋にある炭の山田である。そこで火バサミと什能を購入した。全部で1,474円した。今のものと較べてみると同じメーカーではないかと思われる。よく似ている。

写真:左から石炭什能、現火バサミ、万能火ばさみ、改良火ばさみ、現火バサミ
火バサミとPL法
このごろ火を燃やせる場所はほとんどなくなった。焚き火は有料になった。場所は限定されている。田んぼで枯れ草を燃やすときは、消防に連絡しておかねばならない。京都のお寺でも、落ち葉焚きは近所から苦情が来て実質できなくなって久しいときく。焼鳥店でも炭を使っているところは少なくなった。街中の家では、これらの道具はゴミ拾いぐらいしか使うことはない。
今や100円ショップで火バサミを置いている。ちょっと使う分には間に合いそうだが・・・キャンプで遊ぶ分にはフニャフニャの火バサミでも良いように思うが、力を入れて掴むと捻れて危ない。燃えているので、つい握りすぎるのだ。この事は、焚き火をよくやっている者にしか分からない。怪我をしてからでは遅い。たかが火バサミだが「燃えている薪をつかむな」とか「ゴミ拾い専用」とか注意喚起がいると思う。誰も訴えないから製造物責任法(PL法)に引っかからないのかな。
やはり火を扱う場合はプロユースの道具がいるのだが、このままでは市場から消えてしまいそう。杞憂に終われば良いが。
河内のおっさん
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり・・・もう寝たらどうや。
核兵器禁止条約の発効 ― 2021年01月26日 22:41
ブログ 核兵器禁止条約の発効
2021年1月21日に核兵器禁止条約が国際条約として発効されたとの報道があった。我が国は日米同盟のもと、安全保障が核兵器の抑止力に依存している故に参加はしていない。深堀するつもりはないが、これを契機に原子力への対峙に想いが過ぎった。
核兵器と原子力発電の違い
核の平和的利用として原子力発電があげられる。発電は平和的利用だいえばそうだが、それは目先の金めあての亡者の言ではないか。有事の時は両方ともに取り返しのつかない環境破壊をもたらす。既に我が国は核の脅威を広島、長崎、福島で経験しているではないか。にもかかわらず、原子力に対する本質的な議論もなく、政策もすっきりせず判りにくい。これが目先利益最優先の社会、いや日本の文化、風土なのか。香港の人権問題も我が国では他人事だ。少なくとも、我が国に迫っている脅威に、遠くなりつつある耳をほじくらねばと思う。
経済至上主義
なぜ危険と知りながら、それを利用し続けるのか。考え方の原点にまず経済発展ありきがあると思う。明治維新以降四半世紀にわたって、この考え方で発展してきたのも歴史が語るところである。近年はフリードマンに代表される新自由主義・市場原理主義で国際社会は発展と貧困の歪みを生み出した。右肩上がりの経済成長は永遠には続かないことを知りながら、話題にできない空気を作ってきた。これが原子力の本質を議論させない最大の原因ではないかと思う。
仏教経済学:スモール イズ ビューティフル1973年62才
若い頃、岡本成之さん(元札幌市水道局管理者、北大講師、以後先生と呼ぶ)に色々教えていただいた。ある時何の話からか忘れたが、シューマッハを知っているかと問われた。知るはずもない。名前からしてドイツ生まれでイギリスに移住した経済学者である。彼の著書「Small is Beautifull」を読めというのである。先生は英文の原書を苦労して読んだそうだ。ある時札幌の本屋でいつもの棚を見上げた、写真の文庫本が目に入ったときの悔しさが忘れられないと言っておられた。経済学のケの字も解らない技術屋にとって、読みづらかった覚えがある。ただ、アジア、東洋思想、仏教など馴染みのワードが経済学につながるところに興味が湧いた。

第四章 原子力ー救いか呪いか
1965年、経済学において変化が悪影響だと主張する者が挙証責任を負うべきとされていた。今もそうかもしれないが、彼は逆に、この変化が無害だと立証すべきだと反論したがどうにも核の利用は止まらない。当時「原子力の平和利用」がすでに深刻な危険を引き起こしている、として警鐘を鳴らしているが、世界はこれを無視して半世紀が過ぎた。これが彼の警告である(p190引用)。
日本国は、地震のメッカで安定した地盤はどこにもないと、地質学者は言う。断層の密度も断トツだ。サイエンスの見通しを無視して時の浅薄な政策を無理強いして、何十年もやってきてニッチもサッチもいかなくなっていることを国民は知っているのだろうか。日本の人々はどれほどの災害被害が起これば本気になるのだろうか。コロナ、オリンピック、リニア・・・課題山積で原子力問題は当分の間、顕在化する事はないように思う。表に出た時は取り返しがつかない。核廃棄物処理の研究はしているだろうが、なんら実態が不透明である。核は政治、行政の問題ではない。地球をどうするかの問題で、やはり独立した研究組織の基でコントロールできないものかと、夢想してしまう
シューマッハを新ためて読み直して共感してしまうのは何故なのか。考え方の原点、哲学とか宗教観、自然観が今の自分とよくあう。これも、コロナ禍、高齢化、それとも隠居の所以か。
河内のおっさん
年取ったら世間が見えてくるんや。それに腹立つお前はまだまだや。わかりもせん明日に気を取れれんと、お前の今を観んかえ。四の五の頭をよぎるんやったら、作務に打ち込め、それでもあかんかったら、ぼちぼち、ボケん内に首から上すげかえるか・・下はまだ役に立ちそうやしなあ・・・!
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