新春おめでとうございます ― 2023年01月02日 21:52
新春おめでとうございます
今年も新春を迎えることができた。ありがたい。年末年始は何かと用事ができて、卑山には2日にお参りする。
いつものことだが、暮れに前栽や薮の整備をする。飾りに使えそうなものをとっておいて活用する。今年は門松風に生けてみた。もちろん我流である。いやアートだから流儀はない。バックの絵は、先代が若い頃描いた薮カンゾウである。
温暖化のせいか、暖かいように思う。11時ごろで室内7℃である。外も時々陽がさしてさほど寒くは無い。菜の花が一つ咲いていた。狂ったのかもしれない。この季節は虫がいないので受粉できない。咲き誇っているだけに、哀れである。
虫が隠れてしまうと、冬眠しない鳥やイタチもエサ探しに大変である。イタチは庭の苔を剥がす。ミミズを探しているようだ。
木ノ実を食べる鳥はまだ過ごし易いかもしれない。庭には既に虫が受粉を済ました、南天や千両の実が真っ赤に熟れている。暮れに墓に生けた南天の実はすっかりなくなっていた。嘴の尖ったヒヨドリである。なかなか図太い。
梅のつぼみはまだ硬そうだが、咲きはじめるとメジロが集団でやってくる。小さいので、なかなか可愛い。この頃まで千両の実が残っていたら良いのだが。
小さな世界は平和なように見えて、野生はそうでは無い。生まれた時から生存競争にさらされ死ぬまで止む時はない。生の根本は食なのでその連鎖に従って生きている。
頂点にいる人類も自然界の一員なので例外では無い。野生と違うのは、煩悩が備わっていることである。
どんな宗教も煩悩をおさえよと説いているが、戦争は無くならない。煩悩をおさえる方法はいろいろあると思うが、無にはできない。 おさえの脳トレに励むのみか。
龍安寺の「つくばい」に刻まれた「吾唯足知」を思い出す。若い頃、本山妙心寺での研修で案内された。その頃は、うまく考えたなぐらいで、知足の意味は理解していない。この歳になってようやく、思い出しては、よく言ったものだとうなずく。
分かりやすいゆえに、普段は何処かに行ってしまってる。年に一度思い出す程度ではどうにもならん。その内、思い出しもしなくなるんか、情けないなぁ・・・いや、忘れてしまえば気楽なもんよ・・・
今年も走馬灯のように想いは回るようです・・・
フライパン料理はやさしいか ― 2023年01月12日 17:34
フライパン料理はやさしいか
週末は自坊で自炊となる。夜は晩酌するので、卓上で焼き物か鍋になることが多い。どちらも調理しながら食べられるので、酒との組み合わせは抜群である。
焼き物はフライパンを卓上IHにセットしてスイッチを入れるだけである。かれこれ10年ぐらいこのスタイルである。道具に凝るたちとしては、フライパンも色々買った。
下の写真は現役のフライパンである。右端は東京単身赴任時代の20cmフッ素コーティングで、20年以上前のものだが、あまり使っていないので、まだ目玉焼きは上手く焼ける。
最初はホームセンターで安いフッ素コーティングを選んだ。結構使ったが、やはり劣化してくる。次に少し高めの物をインターネットで買った。コーティングは忘れたがフッ素ではない。さすがにこれは食材がくっつく。使いづらい。
その内またフッ素に戻って、底面が広く平らなものを買った(写真左から2番目)。ちょうどこの頃に、フライパン用ホイルが出てきた。これは良い。焼肉のようになん度も同じ位置で焼くとくっつくようになるが、優れものである。
それとは別に、昔の鉄製の物も買った(写真右から2番目)。少し厚めの鋼板製である。ホイルなしでガスコンロで使っている。取説通りやればそれなりにうまく焼ける。コツは、油と火加減である。IHでもやってみたが、底板が厚すぎて、温度が上がらず、古いIHは万歳してしまう。それでガスコンロ専用にしている。
最近は、電気代が上がったので、IHはやめてガスコンロを机の上に持ってきた。それで分かったことは、ガスの方が調理がやり易いことである。まず、火加減がやり易い。板厚のフライパンを使えば更に焼きむらがでにくい。それと、冷却ファンが無いので静かである。TVの音もよく聞こえる。IHの時は自分の聴力低下と諦めていたのだが、そればかりではなかった。
さて、フライパンである。これ一つあればどんな料理でもできると専門家は言う。だから、自炊初心者はフライパンを買うのだが、専門家が言うようにはうまくできない。フッ素コーティングに頼るも苦戦してきた。だが、自炊の機会が多くなったここ数年で、フライパンがうまく使えるようになった。
分かったことを整理すると、まずは火加減と加熱時間である。中火をうまく使うことに尽きる。アルミ製は火力に鋭敏で、加減は鉄製の方がやりやすい。あとは油を若干多めに使うことである。弱ったフッ素コーティングも油と火加減で調理はできる。最近のフライパンホイルを使えば焦げ付きはない。既にコーティングは劣化しているので、強火も気にしなくて良いので出番が多い。
ここにきて、ようやく材料に応じて自分好みの焼き加減ができるようになった。と言うのは、歳と共に歯にガタつきが出てきて、焼き過ぎは難儀するのである。歯に詰まるのだ。生焼けも怖くなってきた。だんだん火の通し加減の許容範囲が狭くなってくるのだ。その分腕を上げなければならない。
歯磨きで歯の劣化を抑え、一方で加熱と時間のコントロールに磨きをかけねばならない。技の到達点は見えないが、いずれ焼き物は諦めて、湯豆腐を極めることになるでしょう。ささやかな楽しみ、般若湯のために・・・
大木の伐採再び(その1) ― 2023年01月24日 07:47
大木の伐採再び(その1)
昨、2022年の2月に大木5本を倒した。自坊周辺の田んぼに家が建ってきて、いよいよ重機を入れる空き地が無くなる最後のチャンスだった。大木は段丘の斜面に生えていた。
その斜面の並びになるのだが、市道を挟んだ向かいの角に大きなムクの木が生えている。(写真:大木は市道の右側。市道を下ると2級河川の近木川があり、左から右に流れ、大阪湾に注いでいる)
このムクは本ムクで実がなる。熟した実は素朴な甘さがあって美味い。若い頃は、時々この木に登って道にはみ出した枝をノコで切った。だがいつの頃か大きくなって手に負えなくなった。
昨年の大木伐採の流れが、近所の要望に勢いを増した。いつかは何とかしなくてはならない。斜面にはこの他に中ぐらいの太さの木が2本ほど生えている。法面は地がむき出しなので、枯らしてしまっては崩壊の危険がある。剪定で面倒を見れるような高さにするかな。
伐採木は乾燥させて焚き木として活用したい。ところが薪置場にはまだ昨年の丸太を積んだままである。ストックヤードを増設しなければならない。
運搬を考えると置き場は市道の近くが良い。ちょうど墓の西側が、これまた大木があって小さな林状態になっている。
ここに昨年のように、竹で簡易な棚を作ることにした。場所としては、少し狭いが量に合わせて増設すれば良い。
やはり貧乏性なのか、木を切って、金出して処分するのは忍びない。たかが雑木といえども動物にとって無くてはならない生物である。生涯を全うしてもらいたい。
ムクの実は、毎年どれ程の鳥たちが食べただろうか。近くの草畑や竹藪のあちらこちらにムクの苗が出てくる。本体はエネルギー源として貢献してもらい、灰は大地に帰せばまたミネラル分の補給になる。
これぞSDG’sの実戦ではないか。小さな一歩が大事だと、つくづく思うこの頃なのです・・・つづく
寒中お見舞い申し上げます ― 2023年01月25日 07:52
冬場は、野良仕事は一休みできるのできるのですが、今年も大木の伐採などがあり既に作務に追われています。
いつものこととは言え、梅の花が咲き始めると、立春を迎え、あっという間に地中の虫も這い出す啓蟄で、この辺りから自然界の営みは加速度を増し、こちらは万歳を余儀無くされるのであります。
さて、今春も世の見通しは良くありません。高齢者は、他人のせいにせず、日々できることを重ねるのが一番。健康に老いよとはこれ如何に。
皆さん、般若湯控えめで、ぼちぼちいきましょう。
PS. 新春のご挨拶をいただいた方々、
「ありがとうございます。誠に勝手ながら年始のご挨拶を失礼するようになって、本当にズボラになってしまいました。近況はブログでお知らせいたしますので、お許し下さい。 深謝 幸太郎 百拜 」
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