「雨ニモマケズ・・・」宮沢賢治2023年10月05日 17:33

「雨ニモマケズ・・・」宮沢賢治


 NHKが、宮沢賢治の生き様を仏教という切り口で紐解いていた。番組によると、闘病の末に悟りの域に達し、その手記を残した、すごい人のようである。  

 こちらも闘病中ということもあって、病気、死、信仰、悟りの関連について、あれこれ考えていた。タイミングよくこの番組を見たので、忘れないうちに、考えたことを書き留めておこう。

 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・」は賢治の有名な詩である。死後、彼のトランクの中で見つかった手帳の冒頭に記されていた。手帳は、肺炎で倒れて、亡くなるまでの2年間に書きつけたものとのこと。

 賢治は信仰心のあつい仏教徒であった。手帳にはその真言を自分なりに解釈し、死が迫るなかで自己の到達した境地を忘備録のごとく綴っている。

 賢治も手帳に記された到達点に、容易に達したわけではないと思う。10年以上にわたる法華経への深い信仰心が、しっかりしたベースになったが故にできたことではないだろうか。信仰のあつさは、実家の浄土真宗とは相容れず、家出をするぐらいのものである。

 われ闘病中といえども、この境地には到底至らない。それは信心のレベル差はべつとして、避けようのない死が身近に迫っているかどうかではないか。当時、肺炎は不治の病である。ガンもこの最近まで不治の病であったが、今は色々治療法がある。これらは幾分か死を遠ざける。

 賢治は「雨ニモマケズ・・・」にこうありたいと言う願いを凝縮している。とくに、終わりの方の四句、「・・・東ニ 病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニ ツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ・・・行ッテ コハガラナクテモイイトイヒ・・・」と東西南北、どこにでも行ッテ正面から向き合いたいと結ぶ。

 すなわち、頭でわかっていても、実践なくしては何もならないのだ。しかも、四の五の言わずにスーッと動ける者になりたいとの思いが伝わってくる。

 ありがたいお経は、中国語なので意味は掴みづらいが、「雨ニモマケズ・・」は平易な日本語でわかりやすい。

 よく書き残してくれたものである。賢治さんに感謝!

                  アージ 九拜


 やれやれ、修羅場をくぐっていない者には、この種のテーマは荷が重すぎる。次はもっと軽いテーマを探そう。

              


食欲の秋2023年10月09日 10:55

 食欲の秋


 リハビリのために散歩するのが唯一の日課になっている。これまで、暑いのでアーケードのある商店街をうろついて、たまにはショッピングセンターの各階をまわって涼んでいた。だが、毎日のことなので季節感のない景色はすぐに飽きてしまう。

 ここにきて、やっと涼しくなった。早速、昔よく歩いた長瀬川の歩道に行ってみた。やはり自然の景色は良い。彼岸花が咲いている。思い出した。白の彼岸花があったはず。とられてはしないかと、行ってみたら無事咲いていたので一安心。


 見渡せばあちこちに植えられていた。珍しさがなくなったようで、少しがっかりした。赤いのより白いのは遅咲きのようだ。


 異常気象とはいえ、外はいつもの秋を迎えている。それはありがたいのだが、今年はつらい。何かというと食欲の秋である。TVもお店も、わんさか美味しそうなものをPRしている。こちらは、食い意地がはってるのに、ガブリと食せないのだ。

 衣食住という生活の基本3要素のうち、食に制限がかかている。手術前は、時々の、他人の言う暴飲暴食が楽しみだった。急転直下、それができない。心身への影響は半端ではない。

 その内、小食生活に慣れるのだろうが、今は、以前の半分ぐらいで胃はいっぱいになって、戻しそうになる。好みもコロコロ変わる。家人ともども苦戦中である。

 秋になると、草は全てを実や根に託して地上部を枯らす。虫も声高らかに、世代交代の季節である。緑が一斉に色を無くす草畑には寂しさが漂うが、この自然のダイナミズムに共感し、また元気づけられる。

 毎年、この頃は最終の草刈りで自然と戯れいやされる。今秋は、この営みの現場に入れないのが悔やまれるのだ。

 実りの秋なのだが、せっかくの恵みが虚しく感ぜられる。とほほ・・・


 そろそろ気分転換!さあ、散歩に出よう。川沿いの自然をめざして。川で思い出した、上司のJ.Iさんがスナックでよく歌っていた。上手かったなあ。当時はそれほどでもなかったが、今は心に響くぞ。

 

「川の流れのように」

 ♪知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生・・・ああ川の流れのように おだやかに この身を まかせたい・・・♪


万歩計2023年10月14日 15:32

 万歩計


 散歩に出かけられるようになって早ひと月、小一時間歩けるようになった。こうなると歩数が気になる。確か・・・昔会社から提供された万歩計があったはず・・20年ぐらいは経つかな・・・あった。物持ちが良いのだ。

 無動作にズボンのポケットにいれて出かけた。散歩が終わって確かめると、ちゃんと4桁の数字が出ているではないか。古いが使える。

 次の日、少し長い距離に挑戦した。万歩計を突っ込んでいざ出発。折り返し点で万歩計を確認したところ、数字は2桁。測れていない。 

 がっかり、悔しい、帰って電池などをチェックしたが、原因は分からない。これ以上追及する気力もなく、これでは使い物にならんな。新しいのを買うか。

 例によって、ネットで調べた。スマホの歩数計アプリもある。ところが、スマホは楽天のしょぼいものなので、電池がもたない。やっぱり万歩計にしよう。たかが万歩計だが、色々あることがわかった。

 まず、3Dセンサーである。これはどんな向きに持っても歩数をキャッチするらしい。と言うことは今持っているのは、身に着けるのに向きがあるのだ。確かに腰のベルトに掛けるように、でかいクリップがついている。手に持って縦や横に振ってみればわかる。一方向の振動しかカウントしない。たまたま、初回は正しい位置にポケット内で収まっただけのことである。

 次に、「万歩計」は山佐時計の登録商標で、作り続けて50年とのこと。一般名は歩数計という。

 これで、昔の歩数計(オムロン,日本製HJ-001)は十分使えることが分かった。うーん、3Dとやらが気になる。退化した技術屋マインドにスイッチが入ってしまったではないか。そりゃ比べなあかんやろ。

 と言うことで、老舗の最もシンプルで軽いの(EX-150)を注文した。3D、15グラム、中国製で、千円ちょっとである。リハビリ散歩の励みになる。良しとしよう。


 後日、歩数の差を確認した。オムロンの方が感度調整をマイナスにして、約2%少ない歩数であった。やっぱり使える。





散髪2023年10月21日 08:59

 散髪


 7月から約1ヶ月で2回の抗がん化学療法(点滴1週間×2回)をやった。よく言われるように副作用で脱毛がはじまる。程度に差はあっても例外はないようだ。

 ガン患者の多くはニットの帽子をかぶるか、スキンヘッドにしている。こちらは入院前に短く切ったので、帽子をかぶることもなく自然に任せていた。


 [1回目の抗がん剤注入が終わって1週間後、まだ、脱毛はわからない。(散髪して1ヶ月後)]


 [1回目注入後2週間経った時点、どんどん黒いのが抜けて、白いのが残る。]


 2回目が終わった頃から脱毛もおさまった。黒いのがはえだし、白いのがひょろひょろとはえている。


 [2回目の抗がん剤注入後、黒いのが増えたようにみえる。]


 自分より家人の方が全方位からよく見ている。慣れもあるのか、それで良いという。だが、中途半端なこの生え具合は、どうもいただけない。と言うことで、いつもの散髪屋さんに行った。

 4ヶ月ぶりである。病気のことは言ってなかった。ご主人いわく、そんな短に刈ったかな。じつは・・・・と言うことで、どう刈るかお任せにした。


 [散髪後の写真。前は撮ってないが、白い毛がところどころひょろひょろと長く伸びている状態であった。全体的には家人が言うように、散髪前後であまり変わらない。]


 小一時間で、すそを刈り上げて毛の長さを短めに揃えた格好になった。帰ったら案の定、変わってないとの一言である。確かに遠目にはそうだが、すそがスッキリしたので締まった感じがするのだが。

 これから寒くなる。この頭では外に出るのに帽子がいる。どこまで、毛の密度が戻るかわからないので、ニットの帽子を買うかなあ。


長瀬川、その昔2023年10月25日 09:15

 長瀬川、その昔


 散歩に行っている長瀬川はその昔、旧大和川の本流だった。


 散歩道の途中に、石碑がある。河内に住んでいるので大体のことは知っている。この辺りは船が行き来していたと思うと、えらく変わったものである。

 大昔、6,7000年前の縄文時代はこの辺りは海とつながった河内湾であったらしい。5000年ぐらいかけて湾→潟→河内湖と変化していく。

 上町台地北端の砂洲がのびて湾は徐々に閉じられ、淡水化する。同時に大和川の三角州が発達する。詳しくは、アーバンクボタ11号(https://www.kubota.co.jp/urban/data/11.pdf )をみてほしい。


 このように、大和川は河内平野の形成に大きな役割を果たした。三角州は河川の洪水によって成長する。同時に、災いももたらす。ここで生活する人々にとって、治水は最優先の事業である。

 大和川の洪水対策も、石碑にあるように江戸時代の付け替えによって大きく進展したと思われる。そのおかげで、河内平野の中心を北進する長瀬川は疏水に姿を変え、その役を全うしている。この息の長さはめずらしい。

 いつの頃か覚えていないが、川沿いの歩道は脇の用水路を整備し、蓋をしたものである。写真右の並木は桜で、春はみごとである。


 鯉や亀の遊び場も作ってある。


 やや人工に過ぎるが、市街地では仕方ない。水は縄文時代と同じように大和から流れて来ている。この流れが見えるだけでもありがたい。我が街では気が安らぐ貴重な場である。大切にしなければ。